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報告・吉増剛造さん×川島健二さんのトーク「東北のアイヌ語」/柳田国男年譜作成の重い宿題

2月18日5時から開かれた 上記のトークイベントに行ってきました。

定員25人のところ、続々と人が集まり、鎌田東二さんはじめ自由大学の方々が到着して、50人近くの参加。

お二人の感性の共振の波が、絶妙な間合いで押し寄せ、あっという間の一時でした。

終了後の懇親会の席で、なぜか自己紹介と感想を求められましたので、そこでの話を再現して報告にかえます。

「川島さんの友人で、今、筑摩書房から出している『柳田国男全集』の編集委員をしています小田といいます。

川島さんとは30年ちかく以前からお付き合いさせていただいていて、吉増さんは、『黄金詩編』からのファンですので、なんとしても駆けつけなければと思ってきました。

川島さんと長いこと付き合っていますが、それも、「南の川島健二」以降で、その前に「北の川島健二」がいたことを今日始めて知りました。

すみませんでした。

(二風谷での生活、萱野茂さんご兄弟とのつき合い、シャクシャイン祭などのテープなど。懇親会での、アイヌ語の歌まで)

私は、今、柳田国男の年譜を作っているのですが、今までの年譜のもとになっているのは、『定本 柳田国男』の年譜で、これは、鎌田久子さんが、柳田の日記を中心にして作成したものです。

(その鎌田さんもお亡くなりになり、大部分の日記は公開されないままなのが残念な点で、早い公開が待ち望まれます。)

今日の「アイヌ」の話でひとつ思い出したことをお話します。

柳田は、明治39年に北海道、樺太を視察しています。

樺太は、「樺太日記」として、後年、発表されますので分かっているのですが、北海道内の足取りは、ずっと定本年譜のままでした。

例えば、築港予定地の留萌と釧路に行っていると書いてあるだけだったのです。

その北海道の足取りを詳しく調べた木呂子敏彦さんという方がいて、柳田が、帯広で、アイヌの子供たちが通う学校をみたり、アイヌの伏根弘三にあったりしていることが分かりました。

(この後の大正15年啓明会に伏根親子を呼んで、講演させている柳田についてもっと注目すべきだと木呂子さんは訴えていました。)

そこまで分かってくると、留萌と釧路が帯広経由でつながります。

そして、その旅の途中、柳田は短歌を詠んでいるのです。

『定本』に収録されているのですが、定本年譜に反映されることなく素通りされた歌です。

(この歌は、柳田自身の付記つきで、『全集』の次の巻に入ります。)

その歌とは、帯広から釧路に向かう汽車の窓から見た時の歌で、釧路に向かう日は天気がよく、途中の白糠の浜で、アイヌの人たちが昆布を干している様子を見、次の帰りの日は雨で、ぬれた昆布を見てかわいそうとおもって詠んだ歌なのです。

(その時、完全には諳んずることができないと思ったので詠まなかったのですが、「たまさかにとりてほしたるしらぬかの あいぬかこふをぬらす雨かな」という歌。次回配本『柳田国男全集』第34巻上収録予定。現在解題執筆中です。)

こうした柳田のアイヌの人たちの生活への視線を、今作っている年譜にどのように書き表していけばいいのか、今日の吉増さんの話を聞いて、つきつけられた感じがしています。

(「記憶を刻印することが生きるということ」という吉増さんの言葉から、逆に柳田の挫折と悔恨の刻印された生をどう記録すればよいのかと真剣に考えてしまいました。

帯広から釧路。釧路で築港予定地を視察して宿泊。次の日、雨の中、帯広に戻る。という年譜では全くナンセンスでしょう。

歌を詠んだというだけでもだめで、では、どこまで表現すればよいのかということにもなります。

命をかけて訴えてきた木呂子さんの思いもだぶります。)

これからの重い宿題をもらった気がしています。

ありがとうございました。」

これが、正直な感想で、吉増さんからも大きな問題と言っていただきました。

ということで、報告にかえさせてもらいます。

なお、篠原誠司さんの写真展「遠野のトー、三島のミ」は、25日までやっています。

それぞれの写真に川島さんのテキストがついています。

こういうコラボもいいものですね。

ぜひ足を運んでみてください。

篠原さんとは、次に、遠野でお会いしましょうと別れてきました。

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