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シリーズ/「柳田国男」を尋ねる③ 酒井卯作先生に訊く

2011年3月5日Exif_JPEG_PICTURE、吉祥寺 喫茶室 ルノアールにて。

酒井卯作先生について。

1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。南島研究会主宰

Q:柳田国男先生との出会いと印象は?

A:昭和25年に、郷田(坪井)洋文と一緒に民俗学研究所の研究員になったことが、出会いです。

 郷田とは、同期でした。年はあちらの方が上でしたが、郷田は総合民俗語彙と固有信仰の方の仕事、私は南島研究と分担させられました。

どちらも、当時の柳田先生の大きな仕事であったと思います。

印象はというと、私にとって、柳田先生は、常にやさしい好々爺という感じでした。

最初の出会いの時は、岡正雄先生たちがつくった民族学の本や雑誌を読めと薦めてくれました。

もっと勉強しろということだったのでしょう。

研究員をしながら、南島研究会や、次にはじまった稲作史研究会など、でかける度に「カバン持ち」として先生のお供をしていました。

Q:民俗学関係よりも、民族学の本を読めと柳田先生が指示をされたということは、貴重な証言ですね。

学問としての融合を図っていたという具体的な話だと思います。

南島研究会についての「年譜」記載が少なくて、先生が『南島研究』45号で発表した「南島研究会記録」が唯一詳しいものになっているのですが、なぜ「定本年譜」に洩れてしまっているのでしょうか。

A:そうですか。「定本年譜」に書かれていないことについては、よくわかりませんが、戦後の柳田先生の最大の関心だったと思いますから・・・

「島の人の話を聞く会」から南島研究会についてですが、はじめのうちは、記録は井之口さんが担当していました。

私が発表したものも、その井之口さんの記録と、その後、私が書いたもので、45号に発表したので全部ですね。

私が発表した以外には残っていないと思います。

Q:話をしてくれそうな島の人を探すのは、柳田先生の指示だったのですか。

A:次は、こんな話が聞きたいねとか、どこそこに何々島出身の人がいるらしいということは言われましたが、交渉するのは、私の役目で、今のように電話ですぐ連絡つくという人ばかりでなかったので、横浜に行ったり静岡まで行ったりしました。

Q:柳田先生の「海南小記」の旅のノートを先生がガリ版印刷で発行され、最近、森話社から本になりましたが、そのへんの話をお聞かせください。

A:「南島旅行見聞記」とあとで題が貼られた先生のノートが十冊ほどありまして、これは大事なものと思い、マイクロに収める話もあったのですが、お金がかかることなので、30ページほどとってやめてしまいました。

それで、柳田先生の手稿ということで、ガリ版刷りで200部ほどつくり140部外にだしたのですが、あまり評判にもならず残念な思いをしたことを覚えています。

今回、出版の話がきたので、ノートの番号が間違えていたことから、旅の行程を逆にしてしまったことなどを直して刊行することができました。(奄美大島の部分ですね。)

直すにあたって、もう一度ノートを見たいと思い、柳田文庫に行ったのですが、保管していないということで、どこにいったか不思議です。

Exif_JPEG_PICTURE不思議と言えば、民俗学研究所が解散する時に、研究員の私たちが順番で書いた日直日誌のようなノートもあるはずなのですが、何年か前に見に行ったのですが、無いと言われました。

これは、鎌田さんとも話して、大事なものなので、保管しようということになっていたのですが・・・

Q:昭和29年の波照間島調査についてですが、金関丈夫先生が、「定本月報」で、スライドを天皇に見せなければということで、柳田先生の言いつけで皇居に行ったことを、「天皇の師父」というような言い方で書いていますが、ご一緒に沖縄に調査に行かれた先生の目から、金関先生や国分直一先生の反応はどうだったのですか。

A:この時は、大変でしたし、おもしろい話もたくさんあります。

何が大変かというと、当時は、ビザをとらないと沖縄にはいけませんから、アメリカ側の承認を得るののに時間がかかりました。

私が事務的なことを任されたので、あっちこっちに行って大変でした。

金関先生や国分先生が、これまでどんなことをしてきたのかも、アメリカ側が気にしていましたし・・・

ただ、いったん許可が下りれば、いつまでいてもいいということだったので、金関先生と国分先生たちは、一ヶ月あまりで帰りましたが、私は残って三ヶ月もいました。

帰ってきて、柳田先生にしかられたのですが、それだけ心配してくださったのでしょう。

金関先生や国分先生が、天皇の前で報告をしたことを何と書いているのか、私ははっきりしりませんが、

波照間の女の人が一生懸命に働く姿を天皇に見せたいということではないように思います。

そんな理由だったら、べつに沖縄の女性の労働の写真でなくても、他の地方の写真でもよかったわけですから・・・

わたしには、柳田先生が、沖縄の人たちを勇気づけたいという一心で天皇に見せる場を作ったのだと思います。

Q:今日は、貴重なお話ありがとうございました。先生の『南島研究』を見させていただいて、「泣き女」や「兎はなぜ月で餅をつくか」などのお仕事をとてもおもしろいと思いました。

これからの民俗学や私たちのような柳田研究者に伝えたいことなどありましたら・・・

A:私は、じつは昨年、民俗学会を退会したんです。

魅力を感じなくなったからですが、ただ、いま言われたように、若い民俗学者の方からも、おもしろいと行ってもらえているので可能性は信じています。

また、これまでずっと沖縄に通い続け、向こうに待っている人たちもいるので、これからも続けていきます。

あと、高所から柳田批判をしたり、現場での苦労を無視したりするような本が数多く出ていますが、私は読む気にはなりませんね。

おわりに:三月の下旬にも、沖縄に行かれるということで、スケジュールの合間をぬってお時間を作ってくださいました。ありがとうございました。

「南島旅行見聞記」の十冊のノート、民俗学研究所解散時の「日直日誌」など行方がわからないものがまだまだたくさんあります。

「日記」もです。

可能性がある限り、追い求めていかなくてはなりません。

次回は、昨年、ちくま学芸文庫から出た、宮負定雄の『奇談雑史』を校訂し解説を書かれた佐藤正英先生のお話です。

乞う ご期待!