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全面教育学研究会とは

庄司和晃先生が提唱する全面教育学を学び、継承する研究会。

庄司先生は、成城学園初等学校の教員時代、柳田国男の指導を受け、柳田社会科のカリキュラムづくりの一翼を担いました。

柳田社会科の実践に留まらず、柳田国語科、さらにはオリジナルの「コトワザ教育」、俗信教育などの実践、仮設実験授業の創成に加わり、宗教学と論理学をバックとして全面教育学をうち立てました。

その魅力は無尽蔵です。

全面教育学研究会は、その庄司先生を囲んで、三十年の歴史もつ会ですが、日々進化しています。

会員も、教員だけでなくさまざまな職種の方がいますので、ぜひ参加してみてください。

定例会やシンポジュウム、「年報」のご案内など、これからどんどん発信いたします。

参考までに 拙稿を。これは全面教育学のほんの一部、柳田教育学を現代に生かす道があるのかを、過去の例を検証しつつ、その可能性を全面教育学に見出そうという意図で書いたものです。

「柳田民俗学と教育現場の蜜月は再来するか」

(『伊那民俗』第81号2010.6.20発行の原稿に加筆)

1.はじめに

今年は、『遠野物語』が発刊されて百年にあたります。柳田の膨大な著作のなかで、百周年を一般化して祝うことができる書物は限られるでしょうが、『遠野物語』はそのなかでも別格と言えます。また、その話群の舞台であった遠野にとっても、この一年の過ごし方は、「自己認識」と「未来への架け橋」の意味からも特別なものになっています。幸いなことに、私は、この画期的な年に『遠野物語』や柳田国男の研究と、児童の地域間交流という実践面の両面から遠野と関わることができ、改めて故後藤総一郎先生の励ましのおかげと感謝しているところです。

そこで今回は、庄司先生の言う「ヌエ」的な存在者になりきって、柳田学と教育現場の融合と乖離のあとを追い、今後の可能性を探ってみようと思います。

2.柳田民俗学の核心とは

今年に入って、『遠野物語』について話す機会が与えられたこともあり、柳田が「百年」という時の流れをどのように考えていたのかを著作のなかから拾い出してみました。柳田が「百年」や「百年後」を意識しているのは、不思議と旅についての文章にありました。このことは、ここでは触れませんが、「百年」というフレーズを探していて、飛び込んできたエピソードから紹介しようと思います。

それは、1979年に日本書籍から刊行された牧田茂編『評伝 柳田国男』のなかの井之口章次の文章のなかにありました。この本自身も、柳田民俗学と教育の第三の蜜月時代の象徴とも言うべき書で、日本書籍発行の国語教科書(六年下、1979年3月検定済)に牧田茂の柳田伝記「民衆の幸せを求めてー柳田国男」が載ったこともあり、現場の教員の教材研究の参考書と位置づけてもよい本です。そのなかで、井之口は次のように述べています。

「敗戦の直後に柳田は、『日本はなぜ敗けたか』この疑問に答えるには百年以上かかる、という意

味のこ  味のことを述べて人々を驚かせた。なぜ無謀な戦争に突入したか、戦争を避けることができなかったのはなぜか、という設問なら誰にでも理解できる。柳田は、なぜ敗けたのかを問うのである。」

井之口は、これは言い間違いでも聞き違いでもないし、決して好戦的に言っているのではないと断りつつ、「柳田の真意を究明するには数十年の歳月が必要であろう」と問題を提起しています。そして、その提起からもう三十年たっているものの、この視点からの柳田研究は広がっていないのです。これは、あくまでも私の仮説ですが、柳田はこの時、民俗学に課された宿命を説きたかったのではないかと思います。「この疑問に答える」ために、こつこつと「民俗」と「生活」と「信仰」の事実を集めていこうと叱咤激励―七十歳を超えた自分にもーしていたのではないかと思うのです。私は、かねがね柳田民俗学の核心は、「人口と移住」の二大テーマにあると言ってきましたが、敗戦直後のこの課題もその枠内と言っても過言ではありません。その土地を選び、住み続けようとする人々の営為(「平民の過去」)と、国家とのつながりを柳田はどう理解しようとしていたのか、「民間伝承」という「基礎資材の蒐集事業」(橋浦泰雄の言葉)の果てに何が見えると考えていたのか、今こそ、柳田研究や民俗調査に関わる一人一人が自分の言葉で語る時なのではないかと思うのです。

3.第一、第二の蜜月時代

柳田国男が「民間伝承の学」を築き、広める過程で多くの現場の教員たちの協力を求めたことと、現場の教員たちの知的好奇心が合致したことを、あえて「蜜月時代」と呼ぶとすれば、第一、第二のその時期は、大正末期から昭和十年前後の確立期と、敗戦後の国語・社会科教科書の編集過程であることは周知のことでもあります。先行研究は、こと信濃教育に限っても数多く、大月松二の「柳田先生聴書」や「滞京日記」研究などの本研究所の業績もそのひとつにあげられます。大月は成城学園の教員たちと共に、第二の時期の代表者ですが、この二つの時期を伴走した教員集団として注目したいのが、松本や伊那の「話をきく会」に集まってきた教員たちと、水野葉舟を慕ってきた千葉県印旛郡の教員たちです。前者のメンバーの上田出身の箱山貴太郎は、次のような貴重な証言を残しています。

「教育の重要性、教育の発展過程を知った者に、まだ欠けているもの、それが子弟を見る眼に、社会を構成している要素、フォークロアの存在を常に見極めようとする眼の必要があることを察したのであった。学校に来る子供達を教育する教師達は、その子供達一人一人が各家庭をもち、その家庭は近隣社会の中にあり、そうした近隣社会も家庭も歴史的に存在するし、行政の制約の中に存在するものであり、この有様をよく知って教育を進めるものでなくては立派な教育者になれないことが、おぼろげ乍らわかり、よし俺はこれで行くぞ!と腹をきめたことであった。」(「私と柳田国男」『伊那』1987年8月号)

「よし俺はこれで行くぞ」という感覚は、教員なら誰でもがもったことがある普遍的なものです。ただ、この箱山たちが抱いたであろう決意は、柳田の現場教員に対する深い愛情、と言うよりも尊敬に近い感情と間違いなく共鳴していたのです。

4.第三の蜜月時代と今後への期待

柳田国語科も社会科も、この国の戦後教育の原点として異彩を放ちながらも、高度成長と学歴偏重社会の荒波に抗することはできませんでした。箱山自身は前掲文で、柳田社会科を支え切れなかったのは、自分の勉強不足だと反省していますし、私も当時の成城学園初等学校の教員だった庄司和晃先生からも同様の想いを聞いていることではあります。このことの検証は、別の機会に回すこととして、この次に訪れる第三の蜜月時代の性格について触れなくてはなりません。第三の蜜月時代とは、前述の牧田茂の柳田伝記が国語教科書に載った1970年代後半の時期を指します。前の二つの時期と決定的に違うのは、柳田がいないということと、1977年の学習指導要領の改訂が端緒になっているということです。この時期の社会科の実践と、日本民俗学会の対応と高揚については、谷川彰英氏が、『柳田国男 教育論の発生と継承』(1996年、三一書房刊)で詳細に検討しています。この時期を通観して残念なことは、指導要領の改訂という上からの要請のためか、「地名教育」の実践と民俗学会内部からの提言が残ったくらいだということで大きなうねりにならなかったことです。動機が指導要領改訂ということも、不運であったのでしょう。

こうした流れのなか、第四の蜜月時代は来るのでしょうか。今までの反省にたてば、上からの要請を待つわけにはいきません。今語られている「伝統的文化」(何にでも的をつけたがります)は、眼に見えるものばかりを優先していて、柳田民俗学を欲してはくれないでしょう。一方で、早く「これで行くぞ」と言えるものをみつけたいと思っている若い教員たちは、多忙な毎日を送りながらも確実に増えてきています。そうした人たちと共鳴するためにも、私たちは、柳田ほど、とは言わないまでの「百年の問い」を己の内に抱き、学び続け発信していくことが大切だと改めて思う今日このごろです。

5.全面教育学研究会とともに

この原稿のなかで、先生と敬称を使わせていただいたのは、故後藤先生と庄司先生のお二方です。柳田国男の教育学の研究と実践の第一人者でもある庄司和晃先生は、論理学、認識学、宗教学と大きく合体した全面教育学という体系を打ち立てられました。一昨年の2008年12月13日には、成城大学において、「全面教育学研究会25周年記念集会―全面教育学の現在と未来―」(写真・前列中央 庄司和晃先生)を開き、若い教員や看護師の方たちの参加を得ることができました。

これからも、「コトワザ」教育、「生と死の教育」、俗信教育、ことばあそび、柳田社会科・柳田国語科の現代化など今までの蓄積に満足せず、「教育実験」にチャレンジしていくことを再確認したところです。

【全面教育学研究会の定例会は、隔月にお茶の水か成城学園で開かれています。それ以外に、庄司先生のご自宅での会もあります。会員も随時募集中です。ぜひどうぞ。】

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