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地域間交流の課題と展開

今後、この場で発信していく「地域間交流」についての私の思いは、すでに以下の文章として発表したのでここに掲載します。柳田の教育論、現代の課題「コミュニケーション能力」とリンクしながら発信していくつもりです。この「館」の成長も楽しみにしてください。

(以下は、遠野で開かれた「第23回常民大学合同研究会」で発表した記録。『常民大学紀要8 後藤民俗思想史の継承と新たな展開』の一部。)

ー後藤民俗思想史と柳田国男の「疎開読本」に学ぶー

一、はじめに

二○○三年一月に後藤総一郎先生(以後、敬称略)が亡くなられて、今年(二○○七年)で五年目になる。その年の初めに、常民大学合同研究会を遠野で開くことができ、言いようもない気持ちの高ぶりを感じている。それが何なのか、今回の報告を引き受けた時には分からずにいたが、今うっすらと霧が晴れたようなステージの上にいると思う。今回のわたしの報告を含め、この二日間の会場の共有した空間のなかから、常民大学の今後の歩みへの光を見いだしたいと思う。

今、常民大学の有志のなかから、後藤総一郎の言葉を集めた書を作ろうという声があがっている。(本紀要と同時期の二○○八年秋刊行予定)この企画が持ち上がった時、わたしの頭の中に真っ先に浮かんだ言葉が、後藤の論文のなかの書き言葉ではなく、「ざまあみろ」と「○○に○○あり」の二つの話し言葉であった。前者について語ることは別の機会に回すこととして、本稿をまとめるにあたって、後者についてのわたしなりの解釈を述べることから始めたい。

今から三十五年前、わたしは小学校の教員として東京都大田区立仲六郷小学校に赴任した。編集者になって出版の世界に身を置きたいと思っていたわたしにとって、小学校の教員は、一時の腰掛け程度のものでしかなく、典型的な「でもしか教員」であった。後藤の言葉は、そんなわたしに向けられたお祝いの言葉であった。「小田君、おめでとう。なったからには、「仲六郷小学校に小田あり」と全国から注目されるくらいの気持ちでやるんだな。」正確には覚えていないが、多分このような文脈のなかで、この短い言葉が発せられたのだと思う。その時から、わたしの頭のなかでは、これは「ここに我あり」という後藤の人生観を反映した言葉として位置づけている。後藤思想を短く言い表した言葉であり、後藤自身もまた、「柳田研究に後藤あり」「明治大学に後藤あり」と自らに言い聞かせながら歩んできたのだと解釈してきたのである。

「でもしか教員」であったわたしが、後藤の挑発を受けて「柳田国男と教育」の世界に入り、そこでまた生涯の二人目の師と仰ぐ庄司和晃に出会ったのである。庄司は成城初等学校の教員で、柳田社会科や国語科が定着していかなかったのは、自分たちがその教育思想を理解していなかったと反省し、自身の論理学や宗教学の関心と柳田教育学を合体した独自の教育学=全面教育学=を提唱し始めたころのことである。後藤は、庄司から贈られてきた三冊の論文集を、「こういう先生もいる。一度読んでみろ。」とわたしに貸してくれた。その三冊とは、成城学園初等学校研究双書の『柳田学と教育』(一九七二年九月刊)、『コトワザ学と柳田学』(一九七三年六月)『柳田国男の教育的研究』(一九七五年八月)のことで、後藤に返さぬまま、今でもわたしの本棚の真ん中に置かれている。庄司との出会いのあと、わたしは、庄司のもとで学ぶ友人たちと全面教育学研究会をつくり現在に至っている(二○○八年が二十五周年にあたり記念集会を予定)。

全面教育学研究会を立ち上げ、コトワザ教育、「生と死の教育」、柳田社会科の実践(わたしたちは「教育実験」と呼んでいた)紹介などをしてきたのが、二校目の国立市立国立第五小学校時代の十年間であった。『柳田国男伝』(後藤総一郎監修、柳田国男研究会編著、一九八八年一一月、三一書房刊)が十七年かけてようやく完成したのも、この最後の年であった。

三校目が、武蔵野市立第三小学校で、毎年文部省(当時)の研究指定校となっている学校で、柳田国男研究会に通うのが精一杯で、全面教育研究会の事務局を次の世代に代わり、柳田の「教育実験」の紹介も休止状態となった。しかし、武蔵野市に異動できたことは、わたしにとって幸運なことであった。それは、武蔵野市の友好都市のひとつが、遠野市

だったことである。武蔵野市で進めることとなる「セカンドスクール」という大きな教育施策の試行を、夏休みの期間中に遠野市で実施することになったのである。一九九三年の夏のことであり、ちょうど前の年に、佐藤誠輔の『口語訳 遠野物語』に「註」を書かせてもらい、その出版パーティーで二回目の遠野に訪れたばかりの時であった。セカンドスクールの試行は二年間続くことになり、これが、今回のテーマである「地域間交流」の端緒である。とくに、二年目は、子どもたちは土淵地区でホームステイをしながら十三泊十四日という長期宿泊体験をすることとなり、子供の交流だけでなく、地域ぐるみの交流の可能性を示唆してくれたものであった。

今回の報告は、わたしが教員としてかかわってきた「地域間交流」の実際と、柳田国男の思想ならびに後藤の目指した「生活者の学び」とのクロス(後藤の口癖でもあった方法論)を試みたものである。

二.武蔵野市と遠野市の交流の過去と現在

ー加速する児童交流ー

『柳田国男伝』が完成した一九八八年、わたしたちの知らないところで、遠野市と武蔵野市の交流がスタートした。武蔵野市吉祥寺にある工務店が遠野の材木をつかった「産直住宅」を提案したことに端を発していた。「岩手・遠野ふるさとまるごと展」と名付けられた物産展は、遠野の物産の紹介だけでなく、早池峰神楽の披露なども企画され、場所も伊勢丹吉祥寺店に変わって定着していくことになる。一九九○年一一月の青空市に集まった交流市町村に対し、富山県利賀村からの提案で、武蔵野市交流市町村協議会が翌年に発足することになるのである。わたしが、武蔵野市立第三小学校に異動してきて三年目のことであったが、その時もまだわたしと無縁のところで話は進んでいた。

折しも、武蔵野市教育委員会では、当時の土屋正忠市長の提案を受けて、子供たちの山村生活体験を長期にわたって、学校教育活動の枠内で実施できるかを検討していた。その答申を受けて、一九九三年度と一九九四年度の二年間、セカンドスクールと名付けられた体験学習の試行として、夏期休業中に遠野市で実施することとなったのである。

ちょうどその前の年が前述の『口語訳 遠野物語』が出た年で二度目の遠野訪問の時であった。初めて遠野を訪れてから十八年目のことである。研究と仕事の両面で、ほぼ同じ時期に、遠野がわたしの視野に再び入ってきたのである。夏休み期間中のセカンドスクール指導員の募集には躊躇した教員も多かったようだが、わたしにとっては、願ってもないことであった。一年目、二年目とほぼ百人の小中学生と共に、遠野に行けることとなったのである。とくに二年目は、遠野と武蔵野を比較する学習内容の教材開発もしなければならなくなり、遠野を子供の視点からどのように見たらよいのか、考えざるを得なくなったのは今から考えるとよい経験となったと思う。

三年目の一九九五年度からは、セカンドスクールの本格実施となり、各学校ごとに実施地区を決定しなければならなくなった。二年目の夏、指導員としての仕事を終えて立ち寄った遠野物語研究所で、このことを話した時、研究員のひとり、故荻野馨が「小田さん、それ上郷でやってみないか。」ともちかけてくれた。荻野のひと言でわたしの気持ちは大きく動き、学校に帰って、校長と相談をし、武蔵野市と姉妹友好都市であること、上郷小学校との交流ができ、なおかつ小学生がいるお宅でホームステイが実現可能であることなどの理由で決定に至った。こうして、武蔵野市立第三小学校のセカンドスクールは、遠野市上郷地区で二年間実施できたのである。(詳しくは、拙稿「セカンドスクールにおける体験学習」山口満編著『子どもの生活力がつく「体験的な学習」のすすめ方』所収、一九九九年七月、学事出版刊を参照されたい。)

残念ながら遠野でのセカンドスクールは二年間で打ち切られ、わたしのセカンドスクールは、長野県飯山市、富山県利賀村(現在南砺市利賀村)、山形県酒田市及び遊佐町と続いて現在に至っている。セカンドスクールについては、武蔵野市の報告集もあり、今後もさまざまな媒体をつかって発表されると思うので、ここでは、本論である遠野市と武蔵野市の児童交流にしぼることとする。遠野でのセカンドスクール打ち切り後の交流を一覧にすると次の通りである。

なお、セカンドスクール打ち切りの理由は、活字にしにくいことも含めさまざまあるようなのでここでは触れない。ただ、現場にいたわたしの目に映ったのは、「交流のメリット・デメリット論」とでも言えるような目先の感情であった。それは、「遠野に来る武蔵野の子たちにとってはメリットがあるかもしれないが、遠野の子たちには何のメリットもなく、むしろ悪影響が心配される」という遠野市の担当職員の発言に象徴されていた。わたしの学校のセカンドスクールは、荻野馨の口利きで上郷地区、小学校、そして上郷地区センターが一体となった協力体制ができあがっていたが、もうひとつ遠野で実施していた学校は、ホームステイ先ひとつ決めるのにも、大変な労力がかかっていたので、こうした反応がでてくるのもしかたのないことではあった。しかし、この「メリット・デメリット論」では、さまざまな困難を乗り越えて、交流を実現しようという双方の気持ちの共有化ができないのである。

以後、数年間のブランクのあと、時代の要請もあって、わたしがかかわった交流でさえ、次のように活発になってきている。このような交流の加速化の流れは、言い換えれば、「交流のメリット・デメリット論」を克服する取り組みと位置づけてよいかと思う。

一九九九年八月  遠野・武蔵野児童交流(夏期休業中、子供会主催)再開

二○○二年十月  遠野・武蔵野児童交流(十月三連休、市主催事業)この年から小田引率

二○○三年十月             同                         小田引率

十一月 武蔵野市主催 「セカンドスクール十周年記念シンポジュウム」に遠野市教育長参加

遠野市教育委員会事業として次年度から「ふるさと学校体験留学」を始めることをアピール

二○○四年八月  「ふるさと学校体験留学」に第二小の六人の児童参加、   小田引率

十月  遠野・武蔵野児童交流                             小田引率

二○○五年八月  「ふるさと学校体験留学」第二期生八人参加          小田引率

十月  遠野・武蔵野児童交流                             小田引率

二○○六年八月  「ふるさと学校体験留学」第三期生二四人参加        小田引率

十月  遠野・武蔵野児童交流 遠野児童三五人武蔵野訪問     小田 交流コーディネート

二○○七年六月  遠野物語ゼミナール 武蔵野会場 第一回目 子ども講座 述べ百五十人参加

八月  「ふるさと学校体験留学」第四期生 二一人参加             小田引率

十月  遠野・武蔵野児童交流            小田セカンドスクール引率のため不参加

二○○八年六月  遠野物語ゼミナール 武蔵野会場 第二回目 子ども講座 述べ百人参加

八月  「ふるさと学校体験留学」第五期生 一九人参加             小田引率

十月  遠野・武蔵野児童交流 遠野児童 武蔵野訪問予定

この間の交流で特筆すべきは、次の三点である。

ひとつは、遠野市からの「ふるさと学校体験留学」に応えた子どもたちが、初年度は、わたしが担任をしていた学年の男子六人であったのが、回を重ねるごとに武蔵野市内の他の学校へと広がり、男女を問わず定着していったことである。今年度(二○○八年度)は、春の説明会の時に参加者が二十人を超え、六月の締め切り時に、定員の二倍の四十一人に及ぶ申し込みがあったほどとなった。今後、受け入れ側の遠野市における民泊軒数の確保や、学校現場での評価の声の広がりを期待したいところである。

二つ目は、社会教育の事業として定着した「遠野・武蔵野児童交流」の相互交流が「体験留学」とのかかわりもあって加速してきたことである。二○○六年度の武蔵野訪問をする遠野市児童の枠は、当初十人であった。しかし二つ目開けてみると「体験留学」で友だちになったということもあり、三十人を超え、本来であれば抽選のところを全員参加となった。しかも、遠野市の子供たちは二泊とも全体泊の予定であったが、「体験留学」でホームステイをさせていただいたお宅のお子さんが来るというので、武蔵野の保護者からの申し出があり、急遽、八人の子が一泊ホームステイさせていただくことができたのである。

三点目は、武蔵野で初めてもたれた「遠野物語ゼミナール」の付属イベントとして、遠野市ふるさと交流課による「子ども講座」が実現できたことである。昔話を聞く語り部の部屋、河童やザシキワラシと遊ぶコーナー、遠野ふるさと村「まぶりっと」による手作りコーナーに多くの子供たちが訪れた。二回目となる今年度の特徴は、就学前の子供たちが両親に連れられて来ていた姿である。若い親の世代が、遠野に関心を寄せていることの証しでもあろう。

前述したように、初めての遠野訪問から二回目まで十八年のブランクがあったが、一九九三年のセカンドスクール試行から現在までの十五年間で、わたしは三十六回遠野を訪れたことになる。

三十八回目の今年は、武蔵野市の一九人の子供たちと遠野に入った後、武蔵野市の十五人の先生方と合流し、遠野の先生方と交流をした。近いうち、私の夢のひとつの教員同士の人事交流も実現可能となるであろう。遠野の先生が武蔵野に来て、武蔵野の先生が遠野で来る。その先生の生き方を変えるだけの「イベント」だけでなく、接した子供たちや地域、学校にとってもよい刺激になるであろう。また、こうした児童交流をきっかけにした教員の人事交流は、通過点に過ぎず、新たな地域間交流の幕開けでもあると位置づけている。

三.地域間交流こそが「コミュニケーション能力」の究極のかたち

武蔵野市立第三小学校で十年勤務した後、市内の第二小学校に異動した。ここのセカンドスクール実施地は、武蔵野市の友好都市のなかでも一番歴史の古い、利賀村であった。利賀村は、人口千人足らずの小さな村だが、「そば」と「演劇」で話題性が多く元気な村であった。交流相手の利賀小学校の子供たちも元気で、なによりもコミュニケーション宇力が高い。見ず知らずの大人に対しても、堂々と自分の言葉で自己紹介や村の紹介ができていた。なかには、交流の最初の自己紹介で、予定になかったことが入ってもすぐに対応できたのに驚いたこともあった。また、誰もが原稿なしの話し言葉の挨拶である。ここに至るまでの学習の長い積み重ねがあったこと、利賀村あげての教育方針であることなどを聞いたが、何よりも国際人として一人前に育って欲しいという共同の意志を感じたものである。

わたしが担任として利賀村のセカンドスクールにかかわったのは、二回であるが、その間、二小の校内研究の研究主題は「コミュニケーション能力の育成」であった。偶然と言えば偶然であったが、やっていくうちに、「感じる」「思う」「考える」の三段階の言葉の獲得のプロセスと、「一対一」から始まって、「一対多(他)」へと広がるコミュニケーションの輪との連関を、螺旋状の図のなかに位置づけて「コミュニケーション能力向上 三段階連関スパイラル理論」というものを打ち出すことができた。「感じる言葉」を「感じ言葉」、「思う言葉」を「思い言葉」、「考える言葉」を「考え言葉」と名付けたのであるが、この「思い言葉」は柳田の造語である。また、三段階連関は、庄司和晃の認識論の最大の柱である。言うなれば、コミュニケーション能力の研究をするにあたって、わたしは、柳田と庄司の理論を合体させたわけである。

昨日まで、いや会うその一瞬前まで「あかの他人」であった子供たちが、会った瞬間に友だちになれるのは、子供の特権である。そこに自分の思っていることを自在に言い表せる言葉や気持ちをもてることが、「コミュニケーション能力」の究極のかたちなのかもしれないと思ったとき、一方でわたしがかかわってきた「地域間交流」に大きな意味が付与された感覚をもった。

柳田が「思い言葉」に言及している一節をここに紹介する。

国語教育は昔から読み方と書き方の教育のみを重視してきて最も根本的なものを忘れていた。それは「思い言葉」の教育である。「話し方」というのは、むしろその効果を意味する。すなわち自分の思いまたは感ずることを、その通りに言葉で表現させる教育のことである。

先日国立国語研究所が奥州白河付近で、文字に関する調査をしたとき、主婦たちが一日に新聞とか葉書とか文   字による言語生活を営む時間はなんと三分間あまりだったという。特殊な職業の人でない限り、読み書きの時間   は生活の上では極めて少く、しかも一方すべての人達は、生きて行くために「考え、聞き、話す」のにはるかに   多くの時間を使うのである。だから読み書きの能力だけで国語教育を批判することは軽率である。   (略)

「言語に絶する」とか「いうにいわれぬ」とかわれわれがよく使う言葉は、全く「思うことを思うようにしゃ

べる」教育をしなかった従来の国語教育の罪でもあり、それがついに「言語に絶する」思いの敗戦に導いたこ

とを考えると、「思い言葉」の国語教育における必要性が痛感されるのである。

(「思い言葉」『朝日新聞』昭和二六年七月四日、全集第三二巻収録)

ここには、柳田が近代における「学校国語」(わたしたち全面教育学研究会では、学校教育のなかの国語科の実践をこう呼んでいる)に対して抱いていた警鐘が簡潔に述べられている。その簡潔さゆえに「思い言葉」という、やや唐突な響きのある言葉で対比しようとしていることに着目したい。この文章が掲載されたのは、『朝日新聞』の「学芸欄」であった。この日、『南方熊楠全集』の刊行が始まったこともあって、柳田の本文の後には、渋沢敬三の南方熊楠についてのエッセイが掲載されている。もしかしたら、柳田への原稿依頼も、南方についてのことであったのかもしれない。それをあえて「思い言葉」にしたと考えれば、焦りに似た気持ちとして理解することができるであろう。

そして今、この国の家庭内コミュニケーションの時間もまた、一日に五分を切って久しい。柳田が生きていたら何と思うであろうか。学校がコミュニケーションのレッスンの場、「思い言葉」を豊かに表現できる場として再度意識化していきたいというのが、武蔵野市立第二小学校が発信した研究内容だったのである。柳田国男が、学校をコミュニケーションの「修練」の場として位置づけ、近代学校教育が切り捨ててきた「昔」と「郷土」との交流を訴えていたことについては、すでに拙稿「柳田国男の教育観」(『柳田学の地平』常民大学紀要4、二○○三年一一月刊)で触れているので参照されたい。

四.柳田国男の「疎開読本」に学ぶ

では、柳田の「思い言葉」に象徴されるような本来の国語教育の目標は、敗戦を経験してからの反省によって作られたものなのだろうか。最近の柳田批判のベースに、柳田民俗学が戦争の経験と関係なく延命してきた、あるいは、「戦争責任」とは無縁のところで存在していたことへの苛立ちがあるが、そのことは、逆に柳田の視点や提言が戦前から戦後にかけて一貫してきたことの証左ではないかと思うのだが、この「思い言葉」に関しても同様である。

柳田国男の近代学校教育における国語科(前述の「学校国語」のこと)批判は、「昔の国語教育」(一九三七年七月、『岩波講座 国語教育』第二巻、『国語の将来』一九三八年九月、創元社刊所収、『柳田国男全集』第一○卷の解題参照)に端的に表れている。

柳田の主張のいくつかを見てみよう。

何よりも大きな意見の分岐点は、今ある学校内での教へ方を、守り立てて行くか又は建て直すか。別の言葉て

いふならば、既成制度に対する批判の深さ浅さ、もしくは未来に描いて居る夢の濃さ淡さに在るであらう。

歴史の入用は私たちの経験によれば、安全なる改革を企つる者に最も痛切に感ぜられる。新たに機織る人でな

ければ、古い縞帳を出して見る必要が無いのと同じである。

大よそ我々が国語教育と呼び得る社会事業の中で、今日の初等中等の教育機関が、現に引受けて居る部分は

どれだけ、もしくは彼等でなければ他に引受けものが無いといふ部分がどれだけ、さうして其期待と現実との

二つは、果して理想どほりにしつくりと重なり合つているか、或は又出過ぎたり入り過ぎたりしては居ないか

といふ点である。

言葉を人生に役立たせる為に、我々は国語教育をして居るのだといふことを、全部の当事者が三省して見な

ければならぬ。

柳田のこれらの言葉は、まさに日中戦争泥沼化の最中に書かれたものである。時代は、柳田の指摘とは逆の方向を向いていた。一九三四年には、国語愛護連盟が設立され、学校現場を利用した国語統一政策が次々と打ち出される流れのなかにあって、柳田は、真の「愛護」とは何かを訴えている。同書の「著者の言葉」では、次のようにそのいらだちを表明している。

私は行く行くこの日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはつ

きりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすることが、本当の愛護だと思つている。

柳田の指摘は、現代の国語科の目標である「言葉の力」そのものと言えるところがおもしろい。この短い言葉のなかにも、時代と向き合う柳田の姿が隠されている。柳田がここまで、どれだけ「言葉」を愛し、「言葉」を中心とした学問を創ってきたとしても、状況は正反対で、もはや「言葉」が生かされるべき学校現場は、子供が「少しの曇りも無く」物言える場ではなくなっていた。柳田が言う「行く行く」の道筋をまずは追うことから始めたいと思う。

(以下、柳田の疎開児童向け読本を書いていく経緯は略。)

以上見てきてわかる通り、この時期の柳田は、意識して「疎開児童」向けに多くのメッセージを発信している。何のために、何をどのように伝えようとしたのかを知る手がかりは、「疎開読本」を出そうと決意しながら、空襲を記録し、悲劇の沖縄に思いを馳せ、戦争の終わりを感じながら書き綴った『村と学童』の「はしがき」である。

疎開学童の読物が足らぬといふことを聴いて、どうかしなければならぬと思ふ者は多い。それには今までの本

を集めて送るなり、何か良いものを写し取つて与へるなり、他にもまだ色々の方法は有るだらうが、自分は大体

に次ぎの様なことを心に置いて、新たにこの一冊をまとめてみた。

冒頭このように切り出した柳田は、次の二点を強調している。

まづ第一には始めての土地に入つて、急に活き活きとして来た注意力と知識欲とを、出来るだけ一生の為にな

る方向へ働かすやうに、当人たちにも考へ付かせることである。今まではたゞ言葉としてのみ聴いて居た観察と

か理解とかいふものを、又と得難い今度の機会に於て、十分に体得させたいといふ願いを私は持つて居る。それ

には何よりも彼等自らの疑問を以て、発足点としなければならぬわけであつて、境涯の全くちがつた自分の如き

者が、作り設けた問題は適切とは言はれぬかも知れぬが、この趣旨には必ず賛成の人が有つて、同じやうな書物

は是からも出るであらうし、又自分でもなほ追々と、学童の知りたがるやうな題目を見つけ出さうとして居る。

「疎開」という強いられた不幸を、生きた体験とすべきと諭す柳田の姿勢に注目したい。この「はしがき」の末尾もまた、「世が治まり国が益々栄えて行く際に及んで、この大切な知識を人生の役に立て」て、「次の代へ伝へる」のも疎開世代の任務と説くのである。この文を引用し、益田勝実は、岩波文庫版の『こども風土記・母の手毬歌』(昭和五一年一二月)の解説のなかで次のように述べている。

およそ時勢と逆の謎のようなことばを書きつけているのをみると、この時には柳田翁は戦争の終結を見通して

すでにこの本の真に生かされるべき時代のことを考慮に入れていたと思える。

柳田が、早い段階で戦争の終結を知っていたというのは、益田の指摘のあともさまざまに論じられることではあるが、私は、知っているという問題とは別に、戦争はいつかは終わるものであるという確信のもち方に注目したい。日本の近代、世界の戦争の世紀を生き抜いた知識人の良識として評価されるべきと思う。

さらに、疎開で得た「この大切な知識」を生かすためには、対象年齢を小学校五、六年生にしたいとし、その理由と願いを次のように述べている。

今回の如き絶大の機会に恵まれて、折角新鮮なる印象の中に浸つて居りながら、たゞ言葉の供給が足りない

ばかりに、我と我が思想を導いて進むべき手段を欠くとすれば、損失は決して当人たちだけのもので無い。

「疎開」という「絶大の機会」がありながら、それを分析し、考察する「手段」つまり、言葉をもつことができないのは、子供だけでなく我々の「損失」であると言うのである。言うならば、文化の貧困である。さらに続けて柳田は、こうした時代のなかでの疎開読本の役割を次のように位置づけている。

寧ろ毎日耳にして居る言葉に、出来るだけ近い文章を書いて与へることが、彼等の注意を引き寄せる力であ

ると思って居る。但し自分の今書いて居るものが、最も安らかであり又適当なものであると、自信して居るわ

けでは決して無い。成城学校の柴田勝君、其他二三の知友の批評では、全体に少しむつかし過ぎるが、たゞ高

学年のやゝ読書力の進んだ学童だけが、わかつて珍らしがるだらうといふことに一致した。前にも言つたやう

に、五六年の生徒の、現在の本の読み様はよほど荒つぽい。今までの如く弟妹たちとおもやひに、楽に又忙がし

く見て居た気持では、この本を味はふことの出来ぬのも致し方が無い。二度や三度は同じ処を読み返し、又は間

を置いて読みなほす位な熱心が無いと、面白くならぬことは確かであり、又そんなに迄するだけのねうちが、有

るかどうかも問題であるが、幸か不幸か今日は読物がまだ足りない。少なくとも是から出て来る色々の良書の為

に、細かく読み且つ十分な利用を心がける練習に、この本は役に立つことであらうと思ふ。

こうした柳田の文を読んでいると、今の時代にも通用する感覚に陥るのが不思議なところである。経済的には豊かになってはいても、柳田の言う「文化」は、この国において何も進化していないのかもしれない。

自分の文章が子供に受け入れられているのか、子供の疑問に答えられているのかと柳田は自問している。そこで協力しているのが、成城学校初等部教員の柴田勝らであった。柴田勝は、この頃のことを振り返り次のように述べている。

集団疎開は、都会の子どもたちが地方農村を観るよい機会である。どうみたらよいかを教えようとして企て

られた本があったが、そのうち戦争は終った。その原稿の一部を集めて出版したのが「村と学童」であった。

先生はいつも、果してご自分の書く文章が子供に読めるか、読まれるだろうかについてたえず心配と不安をもって居られたようである。(『定本 柳田国男集』別巻一月報 一九六三年一二月)

柴田勝に限らず、「二三の知友」のなかには、以前から柳田と深いかかわりのあった信濃教育を支える教員たちがいた。箱山貴太郎も、柳田から本が送られてきて感想を求められたと述べている。詳しくは、『柳田国男全集』第一四巻の「解題」(拙稿)を参照されたい。

成城の初等部も疎開が決まり、柴田勝が引率することになったと『炭焼日記』には次のように記されている。

四月十九日  木よう  曇小雨 夕に及ぶ

朝P五十一百機ほど来襲、佐智子の行つて居る岩崎工場銃撃せらるといふ。家の近くにも敵機低く飛ぶ。

(略)柴田勝君来、成城の初等部、羽後の増田に疎開するよしにて柴田君其衛に当る。月末に出かけるよし、

氷餅くれる。

五月四日   金よう  晴

柴田勝君来る、五日夜いよいよ秋田県へ立つ。煙草キンシ十等くれる、本を四五冊もつてゆく。

柴田は、この秋田の疎開生活のなかで、子供たちに柳田の文章を読ませたのであろうか。もらった本のなかに、「疎開読本」とは言えないが、昭和一八年刊の『火の昔』は含まれていたのであろうか。興味は尽きない。今後、この当時の子供たち、いわゆる「疎開学童」世代の側からの証言の聞き取りを急がなくてはならない。

(この後、柴田勝先生のご子息、巌氏の話を伺うことができ、柴田勝は秋田県教委から成城に出向のかたちで採用されていたことがわかった。柳田と秋田のいくつかの太い繋がりのうちのひとつであることに注目したい。)

柳田は、この不幸な時代の「疎開」体験を、都会と農村の生活の違いを観る絶好のチャンスと呼びかけている。それを役立てることが、自分にとっても、国にとっても「栄える」道であると言うのである。現代は、「疎開」を強制された不幸な時代ではない。自分から進んで体験でき、その土地の人たちと平和にかかわり合うことができる良き時代である。この柳田の思想が、何の障碍もなく実行できる条件は整っている。にもかかわらず、柳田の「疎開読本」に代わる「交流読本」は少ないし、「体験」もまた、外からや上から与えられるという点では、「疎開」と変わっていない。

五.新しい交流を目指して

都市と農山漁村の交流が盛んになってきている。それはそれでよいことなのだが、そこには、ここで論じてきたような「文化」を比較し、鳥瞰しながらも、地べたに生きる生活者として創っていくという視点が欠けているように思える。わたしが現場で体験してきたセカンドスクールというユニークな「学校教育」にも同じことが言える。セカンドスクールで培った力を、ファーストスクール(学校)で生かさなければ何のための体験なのか、何のためにわざわざ遠くまで行っているのかわからない。武蔵野のセカンドスクールが評価されて、全国に広がるのもいいことに違いないが、莫大な助成金や補助金目当ての活動になる危険性も孕んでいる。すでに、「補助金や予算が切れそうだから、交流が出来なくなってしまうのが悩みだ。」という笑えない話も出てきているほどだ。

しかし、一方で、遠野の「やかまし村」のように、「自分たちが楽しいことをやっている所に、地域や都会のみなさんが集まって来てほしい。」という呼びかけも始まっている。遠野以外からも、集落の中心に、鍛冶屋や調理場があったり、劇場や映画館があったりする地域再生のアイデアは無数に報告されている。

また、送る側、出る側にも変化がある。かつては、「武蔵野市の学校にはセカンドスクールがあるから大変だ。」と、教員の異動希望が少なくなった時期もあったが、最近は、セカンドスクールに積極的に関わりたいという若い教員が増えてきている。それも、自分が楽しくやりたいという内発的な心情からである。

時代の変わり目を感じてはいるが、このままでは、「疎開」時代と同じように、与えられた一時の体験で終わってしまうかもしれない。そうしないためにも、わたし自身も、遠野、飯山、利賀村、遊佐、酒田の人たちとの交流をさらに楽しみながら、柳田国男の「文化」への想像力、後藤総一郎の「生活者の学び」の思想を両輪として、「学問を生活へ、生活を学問へ」を念じながら自分ができることを提案していきたいと思う。

(今回のわたしの発表のために、わざわざ遠野まで来てお手伝いしてくれた、渡辺徹也

・槙本二朗・三田典子氏の若い先生方にこの場を借りて御礼申し上げます。)

付記:上記の文は、2008年までのもので、武蔵野と遠野の児童交流と「ふるさと学校体験留学」は現在も

続いている。2011年度の様子もこの場を通してお知らせするので、乞う ご期待!

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